洋傘で熊を走らす
時は今より25、6年前。
所は帯広より広尾に通ずる旧広尾街道以平原野の中頃での出来事であった。
広尾街道は今では鉄道もでき、自動車も通行する本道1の平坦なる街道であるが、その頃の街道は幸震市街から 高台に出で広漠たる以平原野を通って大樹に出たので、この間約10里は人家とてもなく、ただ草芒々たる原野の一筋道で途中に駅逓が二軒あるのみであった。
常は人通りも稀で終日通行しても途中行会うものは狐、狸の類か郵便逓送夫くらいのもので実に淋しい街道であった。
ある年の秋もやや更けた黄昏時、夕陽が草原の地平線上に沈まんとして、路傍にすだく虫の音も寂しさを加えるこの街道を広尾方面に向かって行く1人の洋服姿の男があった。
それはエスという十勝支庁の技手で、公用で広尾に出張する途中であった。
以平の駅逓まではまだ3里もあるので暗くならぬうちにと道を急ぐのであったが、折から広尾方面からこちらに向かって1人の旅人がとぼとぼと歩いてくる。
ところがその後方2、3町離れたところにも黒い点が2つ追い迫るように進んでくるのが目についた。だんだん近づいきたのでよく見ると、それは何と驚くではないか、その黒点の一つは一頭の大熊でその後ろの黒点は 鉄砲を持って追跡してくるアイヌであった。
熊は全身の金毛を逆立て猛然と矢のように走ってくる。その後ろからアイヌは大声で「熊だあ、逃げろ!」と 叫んでいる。
この有様を見たエス技手は驚くまいことか、びっくり仰天して路傍の柏の大木によじ登り避難したのであったが、かの旅人は熊だというアイヌの声に驚きながら後ろを振り向いて見たが、その時既に熊は旅人の 背後に迫り、猛然と立ち上がってまさに一撃を加えんとしている。
しかるに旅人は逃げようともせず泰然自若としてそのまま路上に座してしまった。
この有様を樹上より見ていたエス技手はその大胆さに驚くとともに、目前に迫る猛熊の一撃に残殺せらるる旅人の無残な姿を見るにしのびず眼を閉じてしまった。
その瞬間、がさりという音は聞いたが人間の悲鳴は聞こえないので恐る恐る眼を開けてみると、血に染まって倒れている筈の旅人は相変わらず平然と静座している。
しかも肩には悠々と洋傘をひらいていかざしているではないか。熊はと見れば道路より左にそれ、草原の中を逃げていく。
アイヌは旅人などには目もくれず、どんどん熊を追跡していく。
エス技手はやっと安心して恐る恐る樹から下り、旅人に近づきその大胆な態度を激賞し、互いに無事なるを祝すのであった。
だが旅人はただ呆然として立とうともしない。それは大胆のためではなく、あまりの驚きのために腰が抜けているのであった。
それにしても熊はなぜ旅人に一撃を加えなかったか。 その謎はこうであった。
旅人がびっくり仰天腰を抜かして路上に座ると同時に、無意識のうちに肩にかついでいた洋傘がバッと開いて身をかばったのである。
さすがの猛熊も三十六計を決めこんで逃げ出したのであった。
このチョビ助物語にありそうな話しは僕がエス技手から直接聞いた実話である。
(東川村 Sさん)