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会津旅行記2013-その10

13)天寧寺
ここは家老萱野権兵衛とその息子郡長正、そして新選組局長近藤勇の墓があります。

車で坂を上っていくと、道路わきに小さな駐車場が。
15年前、ここに自転車を停めた記憶が急にフラッシュバック!
15年間一度も思い出したことないのに、人間の記憶って不思議ニャ。

ここでの15年前の記憶は、とにかく桜がきれいだった。
桜の花びらがひらひらとお墓に降り積もって、こんなところで眠ることができたら・・・
なんて昔の私は思ったわけである。

が、善龍寺でもそうだったように、桜はまだ咲き始め。残念!!

時々出現する案内板に従って萱野権兵衛のお墓を探すがどうしても見つからない。
どうやら細い道が倒木により塞がってしまったよう。
上から回ることもできたっぽいけど、今回はあきらめた。天寧寺の敷地って広い!

萱野さんは戦争終了時、西郷頼母行方不明、神保内蔵助、田中土佐、共に既に死亡。
というわけで、戦争の責任を一身に背負わされて切腹した家老である。
息子の郡長正さんは戦後、育徳館に留学していたが16歳で自刃。
理由は母親に寮の食事のことを書いた手紙を同輩に拾われため。なんて言われてるけど創作らしい。
よっぽどの理由があるんだろうけど・・・
戦争が無事終わって生き残ったのに、なんであえて死ななくてはならないんだろう・・・

近藤勇のお墓は土方さんが作ったもの。土方さんが遺体の一部を埋葬したらしい。
横には土方さんの慰霊碑もある。
ここにはファンが書きこめるノートが設置されている。
私は記憶にないのだが15年前に何か書いたとゆうが言ってた。

ここで、会津の観光はすべて終了。
あとは帰路に向かうのみデス(*´∀`*)

会津旅行記2013-その9

12)善龍寺

ここは「なよたけの碑」と西郷頼母とその自刃した一族のお墓があります。
車でちょっと迷走しましたけど、駐車場ありました。

このお寺には「なよたけの碑」があります。
碑の名前は西郷頼母の妻千重子の辞世の句から。
碑陰にはこの戦争に殉じた女性233名の名前が刻まれています。

年を取るにつれ、不思議なことに目線が変わってくる。
以前は白虎隊目線、容保公目線、梶原平馬目線でこの戦争を見ていた。

でも今は、千重子目線、中野竹子目線、山本八重目線、神保雪子目線・・・
と女性の目線から見るようになった。

大河ドラマを見ていて一番しんどいのは神保修理、雪子夫妻。
修理は秀才で見た目も良くて、雪子とは人々が羨むような仲の良かった夫婦。
修理は強引に鳥羽伏見の責任を取らされて切腹、雪子は娘子軍に参加し、敵軍に捕えられ自刃。
2人の結末を知っている私としては、もう見てられない。ほんと無理。この二人は無理。

この戦役で亡くなった女性たちを讃える碑の前に直立し、しばし思索に耽る。
敵軍が来る前に足でまといになるまいと、命を絶った女性たち。
女ながらも敵軍と戦おうと髪を切って男装をして戦った女性たち。
城に入城し、飯炊きや看病を頑張った女性たち。

もし、私がそこにいたらどの道を選ぶだろう・・・なんて考えてしまう。

今となってはただ彼女たちの魂が永遠の緑野で安らかであることを祈るだけである。

15年前、ここで年配の方たちがお花見をしていた。桜は満開だった。
北海道から来たと言ったら、自分たちのカメラで私たちを撮影してくれた。
そして、住所をわざわざ聞いてきて、北海道の自宅まで郵送してくれたデス。
会津の人って人情に篤いんですよね。

でも、残念。今年は桜はまだ咲き始めでした。

会津旅行記2013-その8

11)石部桜

石部桜は実はお初お目にかかります!
今やってる大河ドラマのオープニングにも使われた地元でも有名なエドヒガンです。

あほのように撮りまくった私は、デジ一タンからの突然の悲鳴に驚く。
彼女ったら「カードの容量がいっぱいです」的なことぬかし始めました!

というわけで、残念ながらこういうことになります↓

aidu_ill_06

だって、ほら、やっぱり、
性能面で、デジ一(なお)>コンデジ(ゆう)
価格面で、デジ一(なお)>コンデジ(ゆう)
権力面で、なお>>>超えられない壁>>>ゆう
ニャもの・・・悪いけど、優先させてもらうニャぁん(*´∀`*)

車に戻ったらカードありました!
あとノートPCにデータ落としてSDカード空にしたデス。

ソメイヨシノも格別ニャけど、やっぱりエドヒガンの風格はたまらないデス。
長い歴史を風雪に耐えてきた、この凛とした美しい御姿!!
ソメイヨシノほどの美麗さはないけど、ソメイヨシノにはない風格がある!

会津旅行記2013-その7

10)飯盛山
長いし、感情的なので読んでくださる方はご注意くださいまし。

ここは白虎隊士中二番隊が自刃した場所としてあまりにも有名である。
戦いに敗れ、ひどい空腹の中くたびれ果ててここに辿りついた少年たち。
その少年たちが見たものは、炎に包まれたお城だった。
お城が落ち、会津が負けたと思った少年たちは死を選んだ・・・・
実際まだ城は落ちておらず、城の周りの家々が燃えていたものを彼らは誤認した。

私が会津にハマったのは小学生の時に見た年末時代劇スペシャル「白虎隊」から。
私は会津が被った悲劇と白虎隊士たち、娘子軍や潔く死を選ぶ人達の姿に感動した。
つまり、私が会津にハマったのは悲劇があってこそ。

私は典型的な判官びいきな性質。
だから何でも敗者の方に肩入れしてしまう。
戊辰戦争の会津藩、榎本軍。
関ヶ原では石田三成。武田氏滅亡時の武田勝頼。大阪夏の陣では真田幸村、豊臣秀頼。

こんな私のココロが会津に落ちるのは必然だった。
悲劇あっての会津で、私はその悲劇を愛する性質だから。

でも30超えた今はそう思わない。
こんな悲劇なんてあっていいはずかない。

こんな16、17歳の少年たちが死を選んでいいはずがない。
昔はあんなに美しいと感じた彼らの武士道が今は全面肯定できない。
だって、何としても生き延びて欲しかった。最後まで希望を捨てずに城に戻って欲しかった。
その後無事に城に帰還できた他の白虎隊士のように。

話はそれるが、私は会津に来て原爆を思い出していた。
どちらも天災ではなく、人間が起こした戦争、人災である。
私が敬愛する林京子氏の芥川賞作品「祭りの場」
何度も何度も読んだ。覚えてしまった段落すら多々ある。
しかし、私は氏が何故タイトルに「祭りの場」を持ってきたのか何度読んでも正直理解できなかった。

――――――――祭りの場では、学徒出陣の物悲しい奇妙な踊りが繰り広げられていた。
そして、8月9日。あの瞬間に最後の踊りの輪は・・・「送る者送られる者、みんな死んだ」

最近解説を読んでやっと理解できた。
「どこそこにあった清らかな青春の祭りの場を織り込みたかった」
あのタイトルはささやかな青春を原爆によって摘み取られた青少年達へのたむけなのである。
だから、筆者の青春の象徴として稲富とのエピソードも盛り込んだのだろう。

更に氏の作品「長い時間をかけた人間の経験」で彼女はこう表現している。
「十四、五歳で逝った友人たちは、青年の美しさも、強く優しい腕に抱かれることもなく、去って行ったのである。恋する楽しさ、胸の苦しさを味あわせてやりたかった。」

私は飯盛山に来てそれを思い出していた。
16、17歳の少年たちは女性を知ることがないまま死んでいったのだろう。
林京子氏が語る原爆で亡くなった同級生の少女たちのように。
もしかしたら[恋心]すら知らなかったかもしれない。

私はそんなに恋愛脳ではない方だと思う。
それでも、思う。
人としての幸せは誰かを好きになったり、その人に好きになってもらったり。
愛し愛されて一緒に長い時を過ごしたり、愛する人との子供を授かったり。
色々な形がある幸せだけれど、男女の恋や愛によってもたらされる幸せはその根幹だと思う。

戦争に巻き込まれあまりにも若い命を散らした彼らはそんなことを知ることもなく死んでいったのだ。
そう思うとなんだか無性に切ない、というか口惜しい。

彼らを愚かだとは思わない。そういう教育を受け、それに従ったまで。
彼らの潔い武士道はやっぱり美しくて・・・百年以上経った今も色褪せることが無い。

だから、私は最終的にこう思わざるをえない。
戦争責任者が悪い。つまりは容保公が悪い。

昔は容保公がかわいそう!天皇の信頼篤く、ひたすら真面目に頑張っただけなのに・・・
なんて思ってた。でもやっぱり今は違う。

確かに会津戦争に至るまでの流れを見ると、あまりにも負のループにハマりすぎてる。
会津藩には同情を禁じ得ない。―――――――でも、100%回避できない戦いではなかった。
だから、
やっぱり、
容保公は、
何としても、戦争を回避すべきだった。

そう思いながら士中二番隊白虎隊士19名のお墓に手を合わせる。
そして、その横に並ぶ墓碑、寄合白虎隊の戦死者に線香を捧げる。
寄合白虎隊は自刃白虎隊士に比べ印象が薄いが、城外戦で奮闘し骸を野に晒した少年達である。
自刃隊士は戦闘の翌日に死亡しているが、寄合白虎隊は2ヶ月以上激しい城外戦を繰り広げていた。

会津でも最もにぎわう観光地、飯盛山。
毎日たくさんの人々がここをを訪れる。
たくさんの人々が手を合わせて亡くなった少年たちの冥福を祈る。
だから、いつもここは清涼な空気に包まれているような気がする。

会津旅行記2013-その6

翌日は7時くらいに起床して、朝ごはんは部屋食。
やっぱりここで、後悔する。
バイキングにすればよかった・・・
朝から一般人用に一定量用意されたメシなんぞ、超低血圧の私には完食できニャい・・・

メイクをテキトーに済ませて、旅館を出発。
東山温泉すぐの武家屋敷へGO!

■おまけ
15年前の2泊目の日の気温は26度まで上がった。
チャリで回ってた私たちは喉が渇いたので、このセブンイレブンに寄った。ナツカシス。

9)武家屋敷

武家屋敷は家老西郷頼母の家を復元したもの。
まず私はそのチートなスペックにショックを受けずにはいられない。

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・敷地面積2,400坪!
・建築面積270坪!
・部屋数38室!

ぐはっ・・・!
うさぎ小屋的戸建てに住んでいるなおちは痛恨の一撃を食らった・・・!
ガンオペに例えると、ザクタンクの一撃だけでHP半分以上持ってかれた感じ。

この辺からちょっと感情的になるので、お読みくださる方は要注意!

最初はそんな感じでチートな家について論じていたわけだけど・・・
自刃の間にたどり着いたら絶句。
今まで何度も西郷一族の自刃のシーンをドラマの映像や本で見て涙した。
でも、復元とはいえ実際にこの小さな空間を目にしたら、ただ絶句するしかない。

頼母の妻、千重子(34)さんの辞世の句
[なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け]
私は辞世の句が好きで、いろんな人の辞世を調べたが、文句なしにこれが最強。
同じ女として、共感せずにはいられない。

私的な訳は
なよ竹のように風に吹かれてその身を揺らすような、かよわい女の身ではあるけれど
竹に決して折れない節があるように、私にも曲げられない強い意志があると知るがいい

頼母と長男を見送った後、敵軍が郭内に突入する前に西郷一族郎党21名は死を選びます。
城内に入りいたずらに兵糧を減らすことを恐れ、足手まといになることを潔しとしなかった。
妻千重子は幼い9歳、4歳、2歳の娘を刺し殺して、自分も後を追った。

昔はね、頼母のこと尊敬してた。
一番初めに見た「白虎隊」の頼母は里見浩太郎さんが演じた頼母。
あれでいい頼母がインプリンティングされてたし。

でも今は違う。
城に行った頼母は結局城から脱出し、榎本軍に合流し函館まで行った。
でもそこで実戦に参加すらせず女と暮らしてたと言う話がある。
だから今は違う。全然違う。むしろ軽蔑。
だって、長女ですらまだ16歳だよ・・・一番小さいのは2歳・・・
その死を見届けなくてはならなかった母親の千重子さんの気持ちを考えたら・・・

でも西郷家だけじゃない。
会津のいたるところでこんな光景が見られた。
家老内藤介右衛門の家も然り、柴五郎の家も然り。
足手まといになることを恐れた老人や女子供は自ら死を選んだ。