武田史跡訪問2017-9②
その後もう少し山の中に進んでいくと「土屋惣蔵片手切」がある。
小山田信茂に裏切られて行き場を失った勝頼一行。
田野に入り先祖の墓がある4.5キロほど先の棲雲寺へ向かう。
そこを最期の地にしようとしたのである。
しかし、既に織田の軍勢が先回りしていて先に進めない。
そこで勝頼たちはまた田野に戻ってくることに。
その際に殿をつとめたのが土屋惣蔵昌恒。
狭い道だったので、片手で蔓を掴みもう一方の手で敵を切り伏せ川の中に落とした。
大正時代の写真↓
確かに狭いですね。
人が一人通れるくらいの道幅です。
勝頼と一緒に死んだ40人弱の家臣達。
私的に分類してみたら譜代(武田家歴代の家臣)は16%~23%。
幅があるのは分類に悩む人がいるので。高遠以来が2割程度。
あとはその他と女性。
その中で土屋さんは譜代に属する。
更に土屋さんの兄と弟も一緒に戦って死んでくれた。
申し訳ないけど、本当にありがたいです。
土屋三兄弟のお父さんスイマセン!
すっごい優秀だった次男坊(昌続)は長篠で死なせてしまいました。
4男と5男と7男は殉死してくれました。すいません!
でもたくさん男児作ってくれてありがとうございます。
たぶん男児と同じ数くらいの女児がいるはすだから・・・全部で14~15人くらいかな。
絶倫で本当にありがとうございました。
金丸筑前守(土屋兄弟のお父さん)も400年以上後の21世紀に見ず知らずのオバさんから己の絶倫を感謝されるとは思っていまい。(そりゃそうだ)
勝頼の死に様はひどいと言われてるけど、本当にそうだろうか。
比べたら申し訳ないけど、朝倉さんの方が全然ひどいと思う。
下を見ても仕方ないけど、大名が滅びる時ってあっけないものですよ。
織田だって信長と信忠死んだらアレだし。
豊臣だって秀吉死んで数年したらアレだし。
悲劇的な最期を遂げた人が好きな私は、朝倉さんもどうかなと思って調べてみた。
全然ダメだった・・・
「誰でもいいってわけじゃないんだね。」と夫が言った。
そりゃそうだ(;´Д`)
というか、自分でも・・・
ちゃんとツボを押さえて武将を気に入ってるんだなということがわかった。
美しく悲劇的な死に様が好きなのであって。
ただ悲惨であればいいというわけでもないようだ。
勝頼は自らのために戦って殉死してくれる40人弱の忠臣と、
北条に帰ろうと思えば帰れたのに運命を共にしてくれた若い奥方と一緒に死んだ。
とても美しいと思います。(当人たちはもうてんやわんやだったと思いますが)