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秦野戸川公園

秦野市の戸川公園に行ってきました。
桜が咲いているというのをたまたまテレビで見たのです。

整備されていてこぎれいな公園でしたよ。

なんかいい感じの橋がありました。

おかめ桜と菜の花

菜の花がきれいです

おかめ桜。下を向いて咲いてて可憐ですね。

オキナ草だったかな。なんか珍しいらしい?

夫ははりきり過ぎて薄着で来たので寒かったようです。
歩いた距離は約6.6km。
頑張ったんじゃないでしょうか。
でも右足の膝がすぐ痛くなるんですよね。
これさえなけりゃ歩くのも走るのももう少し楽になるんですが・・・(;´д`)

週末ハイキング2

今度は大和市の泉の森へ行ってみた。
以前カワセミを求めてやってきたトコロです。

歩きやすい公園でのんびりまったり。

意味なく樹皮を撮ってみた。

何かしらの新芽。

橋があります。

何かしらのカモ。ヒドリガモというらしい。

水車がありました。

いっぱい歩いて頑張りました。
NHKスペシャルで、歩いて骨に刺激を与えることが重要というのを見たのですよ。
それ以来、結構歩くようにしてます。

やっぱり足腰大事ですものね~(;´д`)

近場の山にハイキング

お互い月に何キロ歩くと決めることにした。
それをもし達成したら外食枠を確保。
食費に入らずレジャー費に入る闇外食である。

なので条件は厳しめに設定。
私は月100キロ。夫は150キロ。
腕につけているウエラブル端末で距離を計測する。

この距離を稼ぐためには、ジムで走る以外に週末も出かけた方がよい。
といことで出かけることにしました。

近くの鳶尾山に行ってみた。

コースに入る前に階段が。これがキツイ。

階段を昇ったらこんな感じ。きれいな街並み。

夫を激写。

ツバキ(だと思う)が咲いてました。

正直思ったより勾配があってきつかった。
平坦な道をひたすら歩きたい私には向かないかも。

展望台がありました。

展望台の上は風が強くて、恐怖で立ってられない。
風のうなりがうわんうわん行ってる。
いちお展望台からの景色を撮影してみた。

実はこの先に山の頂上があったのだが、気づかずここで戻ってしまう。
「登ればよかったね~」とは言ったものの帰ってきたら足が小鹿でした(;´д`)

武田史跡訪問2017-9②

その後もう少し山の中に進んでいくと「土屋惣蔵片手切」がある。

小山田信茂に裏切られて行き場を失った勝頼一行。
田野に入り先祖の墓がある4.5キロほど先の棲雲寺へ向かう。
そこを最期の地にしようとしたのである。

しかし、既に織田の軍勢が先回りしていて先に進めない。
そこで勝頼たちはまた田野に戻ってくることに。
その際に殿をつとめたのが土屋惣蔵昌恒。

狭い道だったので、片手で蔓を掴みもう一方の手で敵を切り伏せ川の中に落とした。

大正時代の写真↓

確かに狭いですね。
人が一人通れるくらいの道幅です。

勝頼と一緒に死んだ40人弱の家臣達。
私的に分類してみたら譜代(武田家歴代の家臣)は16%~23%。
幅があるのは分類に悩む人がいるので。高遠以来が2割程度。
あとはその他と女性。

その中で土屋さんは譜代に属する。
更に土屋さんの兄と弟も一緒に戦って死んでくれた。
申し訳ないけど、本当にありがたいです。

土屋三兄弟のお父さんスイマセン!
すっごい優秀だった次男坊(昌続)は長篠で死なせてしまいました。
4男と5男と7男は殉死してくれました。すいません!
でもたくさん男児作ってくれてありがとうございます。
たぶん男児と同じ数くらいの女児がいるはすだから・・・全部で14~15人くらいかな。
絶倫で本当にありがとうございました。
金丸筑前守(土屋兄弟のお父さん)も400年以上後の21世紀に見ず知らずのオバさんから己の絶倫を感謝されるとは思っていまい。(そりゃそうだ)

勝頼の死に様はひどいと言われてるけど、本当にそうだろうか。
比べたら申し訳ないけど、朝倉さんの方が全然ひどいと思う。
下を見ても仕方ないけど、大名が滅びる時ってあっけないものですよ。

織田だって信長と信忠死んだらアレだし。
豊臣だって秀吉死んで数年したらアレだし。

悲劇的な最期を遂げた人が好きな私は、朝倉さんもどうかなと思って調べてみた。
全然ダメだった・・・
「誰でもいいってわけじゃないんだね。」と夫が言った。
そりゃそうだ(;´Д`)

というか、自分でも・・・
ちゃんとツボを押さえて武将を気に入ってるんだなということがわかった。
美しく悲劇的な死に様が好きなのであって。
ただ悲惨であればいいというわけでもないようだ。

勝頼は自らのために戦って殉死してくれる40人弱の忠臣と、
北条に帰ろうと思えば帰れたのに運命を共にしてくれた若い奥方と一緒に死んだ。
とても美しいと思います。(当人たちはもうてんやわんやだったと思いますが)

武田史跡訪問2017-9

武田史跡めぐりに山梨県へ行って来ました~。

今まで2006年5月に1回、2007年4月に2回行ってます。
というわけで10年以上ぶりに行って来ました。

中央道に入るまでが結構遠いのですよね。
相模湖という入り口から入るのですが、そこまでが結構くねくねした道。
しかし!今は圏央道が出来たのです!
相模湖まで行かなくても厚木から圏央道に乗って、圏央道から中央道に入れちゃう。

行きは2時間程度で行けました~。

いつもは景徳院が最後になります。
神奈川よりなので、帰りがてらに寄るのです。

しかし、今回は一番初めに行ってみました。


四郎作古戦場。ここは小宮山内膳が奮戦したところ。


鳥居畑古戦場。勝頼が最後に陣を置いたところ。


姫ヶ淵。侍女達が川に身を投げたといわれています。


川の名前は日川。もともとは三日血川。怖すぎる名前です。


景徳院。武田勝頼墓所。
新羅三郎義光以来500年以上続いた甲斐武田の嫡流が滅亡した場所。
武田信玄が死んで10年ほどしか経っていませんでした。


山門。これは江戸時代当時の物だそう。
それ以外の御魂屋や本堂は火災により新しく建築したもの。


辞世の句が書いてあります。


御魂屋。甲将殿。この下・・・この下に家臣達の遺体がある気がする!
でも日本の土壌って酸性だから骨って結構溶けてなくなってしまうらしい。

勝頼(37歳)、北条夫人(19歳)、信勝(16歳)の生害石。
生害とは自殺することや殺すこと。
ここで死んだよということでしょうが、この石は後世置かれたものでしょうね。


左から信勝、勝頼、北条夫人のお墓。
更に左右には殉死した家臣や侍女のお墓。
甲将殿のすぐ裏にあるので正面から撮るのが難しい。

以前行った時発掘調査してました。↓

その時勝頼の宝篋印塔や北条夫人と信勝の五輪塔が移動してたので撮ったもの↓

発掘調査では人骨や武具等は出なかったそうで。
その代わりに江戸時代に墓を建てた時に埋められたお経を書いた石が4700個ほど埋められてた。
勝頼達の成仏を祈るためのものです。

2007年に実は平成の経石募集をしてたらしい・・・
1,000円払ってで石に字を一文字書ける。
新しいお墓を入れる時にその経石も入れてくれる!
うへぁ・・・しばらくしてから知ったよ(;´Д`)入れたかったな。


旗竪松。嫡男信勝に家督を譲り環甲の礼を行ったと言われてます。
もう武田家が滅ぶとわかっていて、それでも最後譲るというのが泣ける。
その時信勝が着たと言われている家宝の楯無鎧は現存します(国宝)
でも普段見れないんですよね・・・


景徳院本堂。曹洞宗のお寺です。


没頭地蔵尊。頭のな地蔵が3体。
首を取られた勝頼と信勝の遺体。
それと北条夫人の遺体が埋まってるかもしれないと言われてます。


首洗い池。
当時はこんなんじゃないでしょうが、勝頼の首が洗われた場所と言われてます。

今までに3回来ましたが、勝頼・信勝・北条夫人のことしか頭にありませんでした。
今回は一緒に戦って死んでいった家臣達。それから侍女達のことも調べてから来た。
でも数とか名前とかも書物によってまばらなんですよね。

勝頼家族3人を除いて、だいたい家臣は40人前後。
侍女や女性は20前後~40人前後と言われています。

私的には家臣が40人弱。女性が20人弱くらいではないかと。