原子爆弾
昭和20年8月6日、午前8時15分、広島にウラン原子爆弾[Little Boy]が投下された。
同8月9日、午前11時2分、長崎にプルトニウム原子爆弾[Fat Man]が投下された。
人類が初めて体験した、人類が人類に向けた単一の爆弾による圧倒的な殺戮と破壊。
それは68年前の我が日本国の本土で初めて行われた。
私は北海道生まれ育ちで、原爆教育は小学生の頃学校で見た映画数本と絵本のみ。
親から教育のため与えられた[はだしのゲン]も読んだ。
しかし中岡氏の強烈な絵柄は逆に被曝者の悲惨さを幼い私には伝えきれなかった。
むしろゲン達のたくましさと生活力は微笑ましくさえもあった。
そして大学一年生の時に大学の授業で読んだ林京子の[祭りの場]。
その時に私は何も考えていなかった。ただ締切に向けて図書館でレポートをこなした。
氏の作品に感銘を受けることより自分の文章をいかに凝ったものにするかに夢中だった。
当然評価は低く、すぐに文庫本は上京した兄の部屋の本棚の奥にしまわれた。
当時の私はまだ入学したばかりで、恥ずかしいことに授業より合コンやオシャレに気を取られていた。
大学を卒業して社会人になったある夏の日、私は[はだしのゲン]読んだ。
24歳になっていた私は、子供の頃とは違う感想を抱いた。
そして家中の原爆に関する蔵書を探した。
林京子の[祭りの場]、原民喜の[夏の花]、井伏鱒二の[黒い雨]。
大学の授業で入手した文庫本からまず手をつけた。
ここで、私はまた再び[祭りの場]と遭遇したのであった。
そこからは徹底的に林京子氏の作品に傾倒していく。氏の作品はすべて目を通した。
(今でも後悔する。卒論は林氏で書けば良かった・・・!!!)
原爆文学に傾倒する=原子爆弾に興味を持つ=放射性物質の恐ろしさを知る、ということになる。
そこで私は原子爆弾について調べ始めた。原子爆弾のホームページまで作った。
そして、自分も原爆小説を書こうと思い立ち、拙い筆致で書き始めた。
長編の本編と詩編数十篇、とにかく量だけは大量に書いた。
被爆者特有の淡々とした筆致とは真逆で、今まで調べ上げたありとあらゆる残酷な描写を用いた。
それが私が表現できる最善の方法だった。
ホームページにアップして読んだ人に原爆の恐ろしさを知って欲しいと高慢な考えさえいだいていた。
それは結婚して間もない、2004年のある秋の日。
原爆に関する書籍を探していて、そのコミックと出会った。
広島出身の漫画家、こうの 史代の [夕凪の街桜の国]。
これは、あまりにも衝撃的だった。
なんといえばいいのか、言葉では表現しきれないが・・・とにかく衝撃だった。
原爆を、こんなふうに描けるなんて。
原爆を描く際に悲惨さと恐ろしさを前面に出すしかできない私とは全く違った。
リアルな写実な中岡氏とは全く違うほんわりとしたソフトタッチな絵柄。
原子爆弾に、米兵に、天皇に、戦争を賛美していた大人に怒りの言葉を吐くゲンとも違う。
事実を淡々と書き、時折、抑えきれず皮肉を露出させ亡き同級生や師を想う林氏とも違う。
所々に散りばめられた小さな伏線。それが最終話で繋がりあう。
一話目の[夕凪の国]がこのソフトな漫画にしては表現が重い。
でも最も感銘を受けるのは現代を描いた[桜の国(2)]なのである。
薄いコミックなので一度目を通してみてください。
こうのさんが言ってた。「描いてみようと決めたのは、そういう問題と全く無縁でいた、いや無縁でいようとした自分を、不自然で無責任だと心のどこかでずっと感じていたからなのでしょう。
(中略)東京で暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだという事にも、だんだん気づいていました。私と違ってかれらは、知ろうとしないのではなく知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。」
やっぱりどんな形であっても、日本人は知るべきことだと思う。
これから日本に生まれる子供たちにも知って欲しい。
だって、他人事じゃないもの。近い未来に放射線が私たちの頭上に降り注がないという保証はない。
今領土問題でもめている。核を脅しに使う国家だってすぐそばにある。
そして地震大国日本に数多く存在する原発。それらがいつ日本国土を汚染するかわからない。
ううん、もう既に汚染されてる。
私が2011年の秋に帰省する際、ガイガーカウンターを持って列車に乗った。
神奈川では決して出なかった数値が福島に近づくと出た。
Inspector+を使っての列車内での計測だから、ガンマ線。
放射性セシウム、つまりセシウム137である。
それは宮城に行ってもなかなか下がら無かった・・・・・
つづく